感想その8

とてもいい時間を過ごしました。

新しくてプレーンな会場スペースが2人の作品をもって空間と時間の両方に作用しながら、
生き物のような体温を帯びて完全に外と違った時間の流れをもっているなという印象を受けました。

それは子供の頃遊んだ公園にあった時間の流れに似ていて、
そういう時間をたたえたそこは、明けっ広げの秘密基地のような、
安全で親密で自由な場所に感じられました。


参加感のある展示で私はよく義務感を与えられている気がしてしまうのですが、
ジカンノハナはすごく自然なカタチで『在るだけ・いるだけ』のものとして現れて、
何て言うか、警戒しなくていいなと感じました。

(哀しいことだけれど、理解であったり、身体の提供であったり、驚かされたり識らされたり、反省させられたりといった作り手の意図や思いが強いほど、見る人間がそれに応えようと感じてしまう、構えてしまうということが起きてしまうこともあるのかもしれないな。とよく思います。)

ジカンノハナでは心地よさと一緒に、私と作品がここで出会ったということ以上にも、以下にも、何も発生しないという気がしました。
作品の前を通り過ぎる自由を認められている感があって、それがそう感じさせているのかもな、と思います。
それによって、素直に、一緒に遊びたくなる。好きな時間に出て行ってよくて、そこで出会った何かには、たぶんまた会えるという安心がある。
同じ瞬間(かたち)には二度と会えないけど、また明日も、その先も会える気がなぜかする。
そういう中でだからこそ素直に聞こえてくる『おいでよ!』のテンションがすごく心地よかったです。


リアルタイムについて、時間を見つめるというのは大抵切迫した気持ちにさせられるのだけど、そうなりませんでした。
時計を見るのでなくて、揺れている火に溶けていくロウソクを見ているような、時間を経ることのふくよかさ。

ジカンノハナでは、自分がここを訪れて、喜びながら作品に出会い、去っていくという出来事も、
溶けていくロウソクのように、咲いて枯れていく花のように、
『かけがえの無い何でもないこと』として、
大きな時間の流れの中での小さな営みの一つとして
現れて消えていくように感じました。

でもそこにある“消えていく営み”(それが二人のいう『ジカン』なのかもなと考えました。)が楽しげできれいだから、
自分がそうやって消えていくことを自然に肯定できる、そういう空気が満ちてました。

私がここに来たことも、何の利益も成さない。足跡すら残らない。
ただ会って、やぁと挨拶して、別れることが与えてくれる小さくて確かな嬉しさ。

『やってきて、過ぎ去る』というどこででも、いつでも起こっているこの流れから、
私たちは『出会い』という言葉に感じるようなわくわくする気持ちや幸福感を受け取ることもできて、
そんな出会いの流れが途切れる事なく降り注いでくれている、
そういう瞬間の連続が『時間』だったんだ。

そういう『ジカンの幸福な受け取り方』が、それこそ部屋中のあちこちで花が開くように試されている空間で、
私は、こういう時間の受け取り方、帰ることのできる家があったということを思い出したような気持ちになりました。


そういう思い出しのきっかけを、ニワトリを抱いたときみたいにじんわり伝わってくる温かさで、発してた(今も発してる)展示だったと思います。


私も絵を描いています。
何かを表現しながら、作りながら日々を送って生きて行きたい。
そういう中で、自分の周りにはさまざまな人・生き物・モノが存在していて、
そういう相手に丁寧に目を向けながら、侵さない関係を保ちながら生きていく(活きていく)ことがどんなに努力のいる事かと日々感じています。

それをジカンノハナは軽々と、しかもとても楽しそうにやってみせていて、
私はなんだかポカンとしてしまいました。

もちろんこの楽しさの中に2人が頑張って頑張っているんだというのはその手跡からしっかり見えていて、
それでも描き終わるころには満点の笑顔になっている。
そういう戦いの中にいながら、それでも笑うぞ!っていう強さが、静かに、でも全速力で駆け回っていて、私は『おう!』って答えたくなりました (笑)


浅井さんの『自由だよ!』にここから手を振っています。



山口真和